ここ数年月一のペースで半蔵門線住吉駅近くのお茶の先生宅にお稽古で伺っていました。
途中清澄白河駅を通り過ぎる度に「いい名前。かって澄んだ流れの美しい川があって、夏は子供達は川遊びに興じて、、」などとあれこれ夢想しておりました。
残念ながらお稽古が年内で終了する事になり、駅を通り過ぎる事もなくなると思って、今更ですが清澄白河の由来を調べたら、、、江戸時代海だったこの辺りを開拓した清住与兵衛(後に清澄)と、白河藩主松平定信の号にちなんだ白河という名前を組み合わせたそうな。
なんだ全然違う、、騙されてた(訳ではない)
そんな時にたまたま読み始めた「水を縫う」。
主人公の名前が偶然にも清澄(きよすみ)。
手芸好きの男子高校生で小さい時から祖母に手芸の手ほどきを受けます。 清澄の手芸する時の感情がとても理解出来ました。
「、、、時々、自分の心がめちゃくちゃにひっかき回されたうえ土足で歩き回られた部屋になったように感じる事がある。 でもゆっくり針を動かしているうちに、少しずつ部屋が整えられていく。 ひきずり出された怒りや悲しみは抽斗(ひきだし)や棚などあるべき場所にしまわれ、汚れた床は拭き清められる。楽しい事があった時の針仕事は、その部屋に新しい扉や窓をつくってくれる、、、」
私も同じように感じる事があります。 瞑想に通じるかもしれません。
清澄の母の「普通の男の子」のように、スポーツやって、友達と部活に燃えたり遊んだりして欲しいと願う気持ちはかないません。
その母も、服飾の才能がありながらそれを活かす術を持たず浮世離れした夫を、心の奥底では愛しながらも別れ、心の傷を抱えています。
そして、清澄の祖母も姉も様々な心の傷を負っています。
このお話しはそんな一人一人の心の中で絡まった糸をほどいていきます。
最終章に父がどんな気持ちで清澄という名前をつけたのか知るシーンがあります。
「流れる水は決して淀まない。常に動き続いている。だから清らかで澄んでいる。一度も汚れたことがないのは「清らか」とは違う。 進み続けるものを、停滞しないものを、清らかと呼ぶんやと思う。これから生きてく間に沢山泣いて傷つくんやろうし、悔しい思いをしたり、恥をかく事もあるだろうけど、それでも動き続けて欲しい。流れる水であって欲しい。お父さんからは以上です。」
清澄の父は生活力がなく、家庭生活には不向きでしたが、実は深い深い父性を持ち合わせていました。
私は気づかないうちに心の中にいつのまにか淀みが出来ています。
心して動き続けて、流れる水になりましょう。